ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 [chapter:秘密の浴室] イツキはホグワーツの生活を気に入っていた。しかし、一週間もたたないうちの木曜日の夕食時には、深く重いため息を何度もつくようになっていた。物憂げな表情を浮かべて大広間の天井を見上げる。「どうしたイツキ、嫌いなものでも混じっていたか?」 食事を取り分けてイツキの隣の席に着いたカナタが尋ねる。振り向いたイツキは小さく息を吐き出して首を横に振った。「……お風呂」「お風呂?」 マッシュポテトを口に運ぼうとしていたカナタの手が止まる。それがどうかしたか? とでも言いたげな表情で小さく首を傾げている。「我が家の湯殿とは全然違うんだもの」 イツキはもう一度深いため息をついた。 ……イツキは、ホグワーツの生徒用に準備されたお風呂にだけは馴染めなかった。 男子寮に併設されていたのは、風呂というよりも大人数用のシャワールームのようなもので、浴槽などほとんど意味を成していなかった。大勢の生徒が順番に入るので、ゆっくりすることも当然できない。「確かに、我が家の湯殿とも違うが……そんな深いため息をつくほどのことか?」「だって、ラセンと一緒に入れないんだよ?」「……ああ、なるほど」 カナタが小さく口元を緩めて俺を見た。 一人ずつ仕切られた小さな浴槽付きのシャワールームでは、イツキが一人入っただけでいっぱいだ。とはいえ、俺はイツキから離れることができないので、シャワールームの入口で待っていることになる。スリザリン寮の生徒たちは、イツキが扉越しに俺に話しかけているのを毎日聞いているので、最近はイツキが俺に対して独り言を言っているのも気にならなくなってきたらしい。「もうちょっとのんびりゆったりしたいんだよね、僕は」 イツキのため息は止まらない。 星詠館では、広々とした浴槽にたっぷりのお湯が掛け流してあり、設置された蛇口からは気分に合わせてリラックス効果だとかすっきり効果だとかのある泡が出るようになっていた。脱衣所も洗い場も広く、イツキが湯殿に足を踏み入れるだけで湯浴みの妖精たちがわらわらとイツキの周りに集まって、髪の毛を洗ったり身体を洗ったり、すべてを行ってくれた。常に清潔なふかふかのタオルが用意されていて、至れり尽くせりの空間だったのだ。時には一時間以上、湯につかって一日の疲れを落とすこともあった。「それなら、監督生かクィディッチチームのキャプテンを目指すといい」 二人の向かいに腰掛けながら会話に入ってきたのはドラコだった。ドラコの両隣に座ったビンセントとグレゴリーはどちらも大量の食事を皿の上に載せている。「監督生? どうして?」「なんでも、監督生とクィディッチチームのキャプテンだけが使える浴場があるらしい。父上が教えてくれたんだ」「そうなんだ……でも、監督生に選ばれるのは5年生だよね、確か。4年間も耐えられるかなぁ……」「まあ、確かに寮のバスルームはいただけないね」「やっぱり、ドラコもそう思う?」「そりゃあそうさ。特にスリザリン寮には僕たち名家の子どもが集まっているんだから、もう少し実家に近い作りにしてほしいと思ったね」 三人はそろって小さく息を吐き出した。「ホグワーツはこんなに広いんだからさ、広い浴室ががあってもいいと思うんだけどな」「もしかしたら誰も知らないところに隠されていたりしてな」「あり得るね。全てが魔法で作られているホグワーツのことだ。教授陣ですら知らない部屋があってもおかしくない」 それから三人はしばらく実家の浴室について語り合いながら食事を続けた。ドラコの隣にいるビンセントとグレゴリーはそう言った話には興味がないのか、何度目かになるおかわりを食しながら、ただ三人の話を聞いているだけだった。 食事が終わると、両親に手紙を送ると梟小屋に向かうドラコ達と別れ、イツキとカナタは寮へと戻った。 移動の最中もイツキは深いため息をつき続けている。「そんなに憂鬱か?」「お風呂の時間だけ星詠館に帰りたいくらいには」「大げさだな、イツキ。そのうち慣れるさ」「そうかなぁ……」 すっかりしょげてしまっているのか、イツキの足取りは非常に重かった。 生活スタイルを変えるというのは負担が大きいものだがイツキの場合、星詠館ですべて至れり尽くせりだっただけにそのギャップがほかの生徒よりも大きく、悩んでいるのだろう。 螺旋階段を降り、地下牢をさらに奥へと進んでいく。深緑色の明かり取りの下の石壁の前にたどり着き、カナタは立ちどまったが、イツキは考え事をしているのか、物憂げな表情を浮かべたままさらに先へと進んでいく。「おいイツキ、寮はそっちじゃない……」 さらに先の石壁の前で立ちどまったイツキは、寮の合言葉を口にしたが、当然そこはただの石壁だ。扉が開くことはない。カナタがため息をついてイツキの横に並ぶ。 袖口から杖を取り出したイツキは、つんつんと石壁をつつきながら首を傾げている。「ねえ、カナタ。合言葉変わったっけ?」「変わってない。君が寮の場所を間違えているだけだよ」 入口はあっちだ、とカナタはイツキの手を掴み、正しい入口の前まで連れて行こうと引っ張った。しかしイツキは壁をまっすぐに見つめ微動だにしなかった。「……イツキ?」「カナタ、ここ何かある」 俺もカナタも首を傾げてイツキが指さしている壁を見つめた。ちょうどイツキが杖でつついたあたりに、小さな鍵穴があるように見えなくもない。だが、その鍵穴はゆらり揺れていて、形を正しくその場にとどめていないようにも見える。まるで蜃気楼のようだ、と俺は思った。「鍵穴?」 ……と、取り出したイツキの杖の先から、紅い光が舞い出た。杖を選んだ時に出てきたあの小さな蛇がいる。「……君の杖から蛇が飛び出してるよ」「あ、本当だ。たまに出てくるんだ、この子」「魔法で呼び出しているわけではないのか?」「僕が何かしているわけじゃないよ」 蛇は体をくねくねと動かすと、イツキの指に巻きついた後、その形を小さな鍵へと変形させた。紅く輝く鍵が杖の先にくっついている。 イツキとカナタが顔を見合わせて口元をゆるめた。その目は鍵の輝きに負けないくらい輝いている。面白い物を見つけた時の目だ。 鍵はぴったりと鍵穴にはまった。驚くほどすんなりと回る。二回回すと、石壁はいきなりぱっくりと口を開いて俺たちを飲み込んだ。一瞬目の前が真っ暗になったが、すぐに明るい光に照らされた。眩しい、と何度も瞬きを繰り返す。「スリザリン!」「スリザリン、スリザリン!」「お客様だ、お客様だ!」「久しぶりのお客様だ!」「今日の気分は? 安らぎたい? それともさっぱりしたい?」「全身マッサージはやわらかいのが好み? それとももみくちゃにされるのが好み?」 不思議な入口を抜けた先には、湯浴みの妖精がたくさんいた。星詠館にいる妖精たちと似たり寄ったりの姿をしている。ただ、みんな一様にその服装が古めかしかった。人間の子どもと同じくらいの大きさの妖精たちは、イツキ達の姿を見るときゃっきゃとはしゃぎ、俺たちの周りをくるくると走り回った。俺の身体に上ってきたり、イツキの腕にしがみついたり、カナタの足に抱きついたりと忙しない。「うわぁ……」 イツキが溜息をついた。 俺たちの目の前に現れたのは大理石で作られた荘厳な浴室だった。壁には様々な彫刻が施されている。浴槽の向こう側に楕円形に広がる窓が広がっている。窓の外には湖の中が映っていたが、向こうからこちら側は見えないのか、湖を泳ぐ水中人たちはこちらを気にもせずに通り過ぎていく。 腕や足に纏わりつく湯浴み妖精に慣れないのか、カナタは眉間にしわを寄せていたが、イツキの表情はとても晴れやかだ。「スリザリン! スリザリン!」「湯浴みする? 湯浴みする?」「湯浴みしたい……ねっ、カナタ、お風呂入っていこう?」 イツキの返事が聞こえるや否や、湯浴み妖精たちはイツキとカナタの制服を一瞬にして脱がしてしまった。彼らは俺たちの足をぐいっと押して浴槽まで連れて行くと、全身にお湯をかけた。 カナタは湯浴み妖精に驚いて目を白黒させている。どうしていいのかわからず、戸惑っているようだ。イツキはカナタの姿を見て小さく笑った。「カナタ、湯浴み妖精を見るのは初めて?」「湯浴み妖精? 屋敷しもべ妖精の浴室専門係のようなものか?」「そう、浴室のお掃除から入浴のお手伝いまで、全てやってくれるんだ」 はしゃいだ湯浴み妖精は俺にまでお湯をざばんとかけたので、鬣が水を吸ってだらんと垂れた。イツキが笑い、カナタは笑いをこらえた顔をして俺を見ていた。 湯浴み妖精たちに引っ張られる形で、イツキもカナタも深くて広い浴槽に全身をゆだねた。まるで湖の中のようだ。 久しぶりに温かいお湯につかったからか、イツキが幸せそうな表情を浮かべた。 宙に浮いてイツキとカナタの頭に大量の泡を運んできた湯浴み妖精は、二人の頭をごしごしと洗い始めた。二人と一緒に浴槽につかった別の湯浴み妖精は、二人の全身を洗いながら丁寧にマッサージしていく。湯浴み妖精は俺の身体にも子供のような手でマッサージを施してくれたので、俺は気持ちよさに目を細めた。 気持ちいいな、と天井を見上げると、そこには大広間と同じように夜空が広がっていた。窓の外は湖の中なのに、天井は星空か。場所の感覚がくるってしまいそうだな。 最初は湯浴み妖精に戸惑っていたカナタだったが、そのうち彼らにすべてをゆだねればいいとわかったのか、手足を浴槽に大きく伸ばしてイツキの横に並んだ。 イツキは一匹の湯浴み妖精を腕の中に呼び寄せると、その頬を指でつんつんと突っついた。大きな目をぱちくりさせて驚いた湯浴み妖精は非常に愛らしい。「スリザリン、千年くらい来なかった」 イツキの腕に抱かれた湯浴み妖精は、そういって少し頬を膨らませた。「暇! ずっと暇だった!」「ずっと暇だったから、浴室お掃除した。すっごく綺麗!」 カナタの髪についた泡を流したもう一匹がそう言った。「タオルはふっかふか。スリザリン絶対満足する!」 イツキの身体を洗っていた別の一匹がはしゃぐ。彼らは皆イツキのことをスリザリンと呼び、カナタのことをお客様と呼んだ。そこでイツキは湯浴み妖精たちに自分の名前を教えることにした。「僕の名前は、イツキだよ」「イツキ?」「そう、イツキ」 一瞬手を止めた湯浴み妖精たちが、一斉に首を右に傾げたので、カナタが思わずくすりと声を上げた。彼らの愛らしい姿に慣れてきたのか、髪を洗い終えた一匹を捕まえると、自分の膝の上に載せるように浴槽に引きずり込んだ。「わー、お客様、スリザリンのまね? まね?」「僕はカナタって言うんだ」 カナタの指が湯浴み妖精の鼻先を軽く突っつく。「イツキとカナタ?」「うん、そうだよ」「でもイツキ、スリザリンの匂いがする」「ここはスリザリンが作った杖持ってないと入れない」「スリザリンの秘密の浴室!」 湯浴みの妖精たちはパシャパシャとイツキとカナタにお湯をかけながら、浴槽の中をすいーっと泳いだ。ほかの湯浴み妖精たちも二人の周りに集まってきて、いつの間にかイツキとカナタの周りは賑やかになっていた。 カナタが一瞬イツキを探るような目で見た気がしたが、イツキが気にしていないようだったので、俺もそれを気にすることはしなかった。「また来てもいい?」「毎日!」「スリザリンは毎日来てた! お客様も毎日来てた!」 イツキが聞くと、湯浴み妖精たちは目を輝かせて頷いた。 いつの間にかイツキのため息は消え去り、天井を見つめる目は嬉しさで満たされている。「明日からも頑張れそう」「……しかし、本当に隠された浴室があるとは……」「ホグワーツって秘密がいっぱいだね」 しばらく入浴を楽しんだ後、二人は湯浴み妖精にお礼を言って寮に戻った。時を忘れて湯浴みを楽しんでいたのか、寮に戻ったら、もうすぐ就寝時間だと告げられ、俺たちはびっくりして顔を見合わせた。ちょっと楽しみ過ぎちゃったね、とイツキが俺に小さく囁き、部屋に戻ったカナタに帰りが遅いとニトが不満げな声を上げた。 かくいう俺も、湯浴み妖精たちのおかげで毛並みはつやつやになり、ふわふわの鬣に言うことなしだ。イツキと一緒に寝台にもぐりこむと、イツキからはお日様の香りとせっけんの香りがした。 これで明日からイツキのため息を聞かないで済む。俺は安心して眠りについたのだった。