芥川龍之介の『羅生門』のあらすじ、感想、解説とかとか。
2016/08/03
羅生門は、芥川龍之介の作品です。1915年の作品で、今から実に100年も前に書かれた小説なのですね。氏が23歳の時にこの小説は発表されました。
国語の教科書に載る純文学の代表的な作品なので、読まれた方もいらっしゃるでしょう。確か読んだはずだけど、どんな話だったっけ、という方もいらっしゃるでしょう。ということで、いつものようにあらすじを。
羅生門のあらすじ
朱雀大路の羅生門という門の下で雨宿りしていた、とある下人の話です。下人というのは、私的な奴隷みたいなもので、まあ小間使いというか手下というか、そういう人のことです。
このニ三年、地震やら台風やら火事やらで京都はエライことになっておりまして、さびれにさびれて、仏像仏具は打ち砕かれてその端切れが売られたりするような無法状態となっておりました。ついには、泥棒が住みついたり、死体の捨て場として扱われたりと、まあ羅生門はひどいことになっていたのです。
そんな羅生門で下人は雨宿りをしているのですが、下人は数日前に主人から暇を出されており、これといってどこに行くあてもないのです。それどころか、明日どうやって生き延びるかさえ見ていないのです。このままだと飢え死にしてしまうので、これはもう盗人になるより他ない、というところまで追いつめられております。もはやそうするしかないのですが、そうしようという勇気がついぞ出ないのです。
夕暮れの京都は寒さがきつく、とにもかくにも羅生門の楼のところで雨風をしのいで今日は眠ろうかと思うわけです。誰かいるとしても、まあそこには打ち捨てられた死体くらいしかないわけですから、まあ気味は悪いが安全ではあるわけですね。
しかし、梯子をあがって中を覗き込むと、誰かがひとり火を灯してごそごそ動いているのが見えたのであります。
楼の中には、噂の通り、死体がごろごろ転がっていたのですが、その死骸の中に、背の低いやせた白髪頭の老婆がうずくまっていたのです。老婆は右手に火のついた松の木切れを持って、死体の髪の毛を一本ずつ抜いているのです。
恐怖していた下人は、はじめ恐怖していましたが、徐々にそれが怒りに変わって行くのです。先ほどこの先はもう盗人になるしかないと思っていた下人も、盗みを前にして、怒りに打ち震えるのです。
下人は腰の太刀に手を掛け、老婆の元へと、どんと歩み寄ります。当然驚いた老婆は、逃げようとするのですが、まあ男と老婆ですから、適うはずもありません。
「さあ貴様、何をしていた」と下人は問い詰めます。老婆はおそれおののき、黙りこくっております。下人はその姿を見ていると、この老婆の生死を今完全に自分が握っているのだということを思い知ります。
老婆は口を開きます。「髪を抜いて、かつらにしようと思った」のだと。その返答を聞くと、下人の心に何やら冷やかな侮蔑が流れ込んできました。それを察した老婆はさらに続けてこう言います。
死人の髪の毛を抜くことは悪いことかもしれんけど、ここの死体はどいつもこいつもロクなやつらじゃない。この死体の女は、蛇を切って干したのを魚だというて売っておった。それが悪いこととはおもわん。そうしなければ、餓死するしかなかったんやろう。ワシが今この女の髪を抜くのも、同じ事じゃ。こうせねば、死ぬしかない。この女はそれをよくわかってくれるはずで、きっと自分がしたことを大目に見てくれるだろうと。
下人は、ここでひとつの勇気を持ちます。「ならば、俺が貴様の着物を剥いでも恨まないな。俺もこうしなければ、餓死してしまうのだからな。」
老婆の着物をはぎ取り、死骸の上へと下人は老婆を蹴り倒し、梯子を下りて夜の闇へと消えました。下人の行方は、誰も知りません。
ニキビをめぐる『羅生門』の感想と解説、解釈めいたこと
というわけで、『羅生門』という物語は、要は下人が盗人を決意するまでの物語なわけです。本作『羅生門』、一般的にはエゴイズムをテーマにした作品とされています。毛を抜く老婆もエゴ。老婆の着物を剥いだ下人もエゴ。善悪を越えて、エゴとは何やらドロドロしていて、おもしろいものですね。で、何故に下人は盗人を決意するのか。その心情の移り変わりとは、いかなるものだったのでしょうか。
そこで、ニキビに着目してみましょう。『羅生門』では、ニキビの話が全部で4回出てきます。下人の右のほっぺたにニキビが出来ているのですね。まずは、夕暮れ雨がやむのを待っていた時です。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、おおきな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
面皰がニキビです。難しい漢字ですね。まあ、ニキビを気にしていると。
その次は、楼へと続く梯子をあがっている最中です。
羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。
ニキビのある顔を火の光にさらしていると。
さらに、老婆の告白を聞いている時のこと。
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。
”もちろん”ニキビを気にして、老婆の話を聞いていると。
そして、老婆の着物を奪う瞬間。
一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
さて、男のほっぺにニキビがあろうとなかろうとこの物語は成立するはずですが、芥川龍之介はあえてニキビをこの下人に与えています。そしてこの羅生門はニキビからの精神的脱却に至るまでの小説なのです。
ニキビは、若者の象徴ですね。下人は若いのでしょう、青いのでしょう。明日、死ぬという状況に追いこまれているはずなのに、ニキビなんぞを気にしているのです。
彼は、悪たるもの、すなわち盗人の老婆に出会います。そして、明日死ぬかもしれないというのに悪事を働く老婆に、やいやい、貴様何をしていると出ていくわけです。
そして、老婆から着物を奪い去る時、盗人の勇気を持つ時、ついに面皰から手を離すのです。悪事を目にし、生き抜くことの正体を下人は知り、彼は悪事を働き、生きることを選びます。
善と悪というのは、案外混沌としているものです。蛇を売っていた女ですが、彼女の干魚は味が良いと結構評判だったようですし。善か悪かというのはもはや物事の捉え方に過ぎません。
善か悪か、ではなく、生か死かを問われていたことに下人はようやく至るのですね。大人になるということ、精神的な成長をしたということかもしれません。ということで、彼は最後に自分のニキビからついに手を放すのです。まあ、なかなかわかりやすい仕掛けが本作には施されているわけですね。
とは言うものの、悪事を働いてでも生きることが正しいのか。とは言え、悪事を働かずに飢え死にすることが正しいのか……。どうなんでしょうね。とかく、人の心というのは善やら悪やらをふわふわ漂っているというわけです。
まあ、そのあたりをテーマにしたら、読書感想文もすらすら書けますね。
いずれにせよ、このような永遠の命題を芥川龍之介の『羅生門』は与えてくれます。ぜひご一読あれ。
『羅生門』のラストに関する余談
確か、本作『羅生門』、何回か書き直されておりまして、最終稿の段階で、
短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない。
というのが加えられております。最初はただ下人が逃げて終わりだったのですが、下人の行方はだれも知らない、と加えられたのです。なぜわざわざこの一文を加えたのか。
読む者の感情としては、この下人というのがどうも自分の心根の奥の方へ逃げ込んだ気がしてしまいますし、老婆が覗き込んだのも、どうも自分の心の奥を見られているような気がします(私だけ?)。というところで非常に効果的なように感じられますが、まあ、人によっては蛇足と思うかもしれませんね。感想の分かれる難しいところかと思います。
映画化された『羅生門』
最後に。ご存知かと思いますが『羅生門』は1950年に黒澤明監督の手によって映画化されております。
こちらは『羅生門』と『藪の中』が混ざったような一作になっており、どうも最初は日本国内では評判が良くなかったらしいですが、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、アカデミー賞名誉賞受賞と海外で評価され、後に日本でも評価されるようになったそうですよ。