ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 拳藤一佳が物間寧人を抱きしめる話2016年7月10日 22:27 雄英校舎の屋上は4箇所あるが、その一つは国の緑化政策の要請で[[rb:風情 > ふぜい]]ある庭園となっており、生徒たちも息抜きに利用する。時間によっては複数の組が[[rb:集 > つど]]ってごった返すこともあるが、試験期間は放課後の部活動も禁じられているため、生徒がほとんどおらず、がらんとしている。出入り口のガラス扉を開いて[[rb:拳藤 > けんどう]]が辺りを見回してみたそのときも、人はさっぱり見当たらなかった。湾曲した小路の奥の、優美な曲線をしたベンチに座っている金髪の男子を除いて。「おーい、[[rb:物間 > ものま]]!いつまで落ち込んでんだよー」 距離はあっても聞こえているはずなのに、物間は振り返りもしない。へそ曲がりが。全く世話の焼ける奴。拳藤はひょいと扉を潜り抜けて、再び声を張った。「ライン見ろよー!期末の打ち上げするからさ、お前も来いよー」 小路をテクテクと数歩、ベンチの方に近づいたところで突然[[rb:澄 > す]]んだ声が掛けられる。「それ以上そこ歩かない方がいいよ」 見ると物間がこちらをふり向いて、人差し指で拳藤の目の前の道を指している。なんだよ、やっぱり気づいてるんじゃないか。最初から返事しろっての。物間の声量からしても、それほど大声を出さなくても聞こえるらしい。もう。「そこ、さっき[[rb:骨抜 > ほねぬき]]と柔らかくしたからね。見た目じゃわからないけど、その辺は多分まだ沼だよ」「おいおい、大迷惑だな……なんでそんなことしてんだよ。もう肝試しの練習か?気合入ってんな」 拳藤は物間の指した領域を注意深く[[rb:迂回 > うかい]]して、ベンチの裏側に到達する。[[rb:御影石 > みかげいし]]の敷かれた低い壇の上、庇の影に入ってみての体感温度の違いから、今日の気温の高さを改めて思い知る。気がつけば、もう7月。ときどき[[rb:緩 > ゆる]]い風が吹く程度の、汗ばむ陽気だった。「拳藤には関係ないけど、確かめたいことがあってね」「ふーん。で、骨抜は?」「ちょっと前に帰ったよ。会わなかったの?」 やれやれ、入れ違いか。てか骨抜も物間を置いていくなよ。とはいえさておき、これで教室に集まってないのは物間一人だ。あちらでは今頃打ち上げだけでなく、合宿に向けた買い出しや小旅行、ほかの自主訓練なんかの企画を話し合ってるところだろう。「ほら、物間も一緒に教室帰ろ?」 拳藤はひょいとベンチの背から物間の前へと手を伸ばすが、物間はそれを[[rb:一瞥 > いちべつ]]しただけで、うやむやとした音を発しつつ再び懐に目を落とした。遠くからでは気づかなかったが、ハードカバーを読んでいたみたいだ。[[rb:仏風漫画 > バンドデシネ]]かなと思ったけど、活字の本。サリンジャーの有名なやつだった。「切りのいいところまで読んだら戻るよ」「嘘つけ。全然そんな雰囲気じゃないぞ」 物間は普段から変に[[rb:捻 > ひね]]くれたところがあるが、今日の[[rb:愛想 > あいそ]]のなさは半端ではない。 どう考えても今朝、B組唯一の赤点をつけられたことでプライドが傷ついたところによるものと拳藤には思われた。 でも。 少しだけ不可解なところもある。今までも物間は割と失態を犯す方だったが、基本的にはそれらを口八丁を尽くして乗り切るタイプだ。今回だって、演習試験の相手が相手だったこともあり、誰一人として物間を笑ったりしていない。相対的な上位下位はあっても、演習試験の困難な性質から、みんな割と紙一重のところで合格したという実感が強い感じだったと思う。 確かに一人だけ演習試験で赤点ってのは不名誉に聞こえるかもしれないが、そもそも一年時の試験の成績なんて、はっきり言って進路・就職には全く関係がない。補習を受ける以外のペナルティも無い。第一その補習ですらも、雄英では、劣等生を痛めつけるためだけの、無駄に時間だけ食わせる罰の類じゃない。明確化した欠点を補うために、普段から細かいところまで見てくれてるプロが数時間、少人数につきあってメニューを組んでくれるのだから、実質はトップトレーナーによるオプショナルサービスに近いぐらいだ。 物間だってそれぐらいの合理化は自分ひとりでしそうなものだ。なのにラインも見ず教室にも戻らないで、ひとりボンヤリしてるなんて、随分らしくないんじゃないか。ひょっとして、と拳藤は少しだけ胸がチクっとする心当たりを切り出した。「もしかして、私のことまだ怒ってる?」 気のない様子だった物間はそこでようやく、不思議そうにこちらを振り向いた。「全然。なんで?」「だって、試験がロボ演習とか、誤報だったし……」「そんなことか。試験の傾向変更なんてよくあるだろ。拳藤は何も悪くない」「でも、お前の個性って他人に左右されまくるし、事前情報が命綱みたいなとこあるじゃん」「別にそんなことはないし、仮にそうだったとしても、拳藤のことは怒ってないよ」 じゃあなんで聞こえてるのに返事しなかったりするのかなー、こいつは。 本当に何考えてるかわっかんねえやつだな!「でもさ、お前の試験の動画ちょっと見せてもらったけど、全然冷静じゃなかったじゃん。やけになってるのかなって思って。実際あっさりチーム分断されて、お前瞬殺だったし」「結果はともかく、僕の方に[[rb:誘 > おび]]き寄せたとこまでは策だよ。僕が[[rb:囮役 > デコイ]]は既定路線。[[rb:虎穴に入らずんば > リスクテイク]]ってヤツさ」「いや、それが普通に無謀過ぎだっつーの。自暴自棄だろ。[[rb:あんなの > ﹅﹅﹅﹅]]相手にタイマンとか、どんな[[rb:虎児 > リターン]]狙いだよ」「そんなの決まってるじゃないか」 物間は本当に意外そうに拳藤を見た。ひょっとしてマジで全然わかってないってことないよね、お前? という空気がむちゃくちゃ出ていて、拳藤はなんだかかなり腹立たしく感じたが、実際彼の意図を聞くと、そんな気分はすっ飛んでしまった。「オールマイトの“個性”をコピーするつもりだったんだよ」 え? 物間が実にさらりと言ったので、拳藤は面喰らう。 ……え、マジで?「なんだよ?」「え……いや、正直驚いたっつーか、恐れ知らずっていうか……普通、思いついてもやろうとするか?それ」「あのさあ、拳藤。[[rb:教師 > プロ]]相手の戦闘演習は正々堂々と先達の“個性”をコピーできる稀少な機会だよ?ましてオールマイトは全校でも一年生の二組だけしか担当してないんだから、千載一遇でしょ。狙わなきゃ男じゃない」 物間の眼の奥になんだか雄っぽい、強い色が差してきた。 もしも本当に物間の[[rb:企 > たくら]]みが実現したなら、試験の結果は全く違うものになっていただろう。流石のオールマイトでも、己の[[rb:超“超常”級 > インクレディブル]]な“個性”と闘うともなれば、手を焼かずには済まないはずだ。ウェイトも付けられていたし、生徒側にはカフスだってある。それだけのポテンシャルを、物間の個性は秘めているのだ。その可能性に改めて、拳藤は心中で嘆息した。 だが、実際の結果は、B組全員が知っている。皆は遠慮したが、拳藤は物間たちの了承のもと、その映像を観ていたので、その場面も目撃している。物間は、オールマイトと近接戦に入ると、10秒と[[rb:保 > も]]たず地に伏せた。ロボが撮影した範囲を見る限り、物間はオールマイトの繰り出す剛拳を前に、ほとんどなすすべなく沈んだように見えた。 だがまさにそのとき物間は、本当は反撃のカードを準備していたということになる。「僕は確かにあのときオールマイトの拳に触った。でも、“個性”はコピー[[rb:出来なかった > ﹅﹅﹅﹅﹅﹅]]」 そしてそのカードは結局切られず、場に出ることはなかったのだという。「え、待って。ちょっとよくわかんないんだけど、触ったのにコピー出来なかったってことは、“個性”の性質の問題ってこと?」 拳藤の推測はまっとうなものだ。イレイザーヘッドの“抹消”で消せる対象が発動系や変形系に限られるように、対象の“個性”に直接作用する“個性”には、性質上の限界が生じることは珍しくない。「まあ、そうだね。確かに僕が写し取れない性質の“個性”はある。その条件は内緒だけど。 でも、これまでの観察と経験則に照らして言えば、オールマイトの“個性”は確実に写せたはずなんだ。威力が本物に及ばないことはあっても、まるっきり発動しないってことはありえない。万が一コピー出来ない“個性”であったとしても、そのときは固有の手応えがあるからね。[[rb:痺 > しび]]れとか[[rb:疼 > うず]]きとかさ。 なのにオールマイトに触れたときは、一切の手応えがなかった」「どういうことなんだよ、それ」「僕が聞きたいよ。ありえない」 物間は肩を落とした。拳藤にも、その話はなんだか不可解に思える。確かに厳密にはオールマイトの“個性”の詳細は明らかにされたことがない。だが外見に異形も無いのだし、あの超人的なパワーはそれこそ緑谷出久や爆豪勝己のような、増強系か発動系と見るのが自然だろう。世間的にもそう受け取られているはずだし、たいして有力な反論も聞かれない。威力自体は桁違いでも、性質まで特殊だとは思えなかった。「じゃあ、あとは……緊張してたとか、そういう?」「……やっぱり、そっちの理由しか無いよな。正直考えにくいけど、ほかに説明がつかない」 緊張等による変調。 実に[[rb:茫漠 > ぼうばく]]とした説明だが、これが発動異常の理由としては案外馬鹿にできない。“個性”は身体機能の一部であるため、心身のコンディションと強く影響し合う。ノリがいいときにエクトプラズムの“分身”数上限が伸びたり、爆豪や轟のように外気温や体温の違いで性能が悪化したりすることの延長上に変調はある。人生にそう何度と無い、極端に負荷がかかる状況において思い通りに発動しないことは、当然予想されることなのだ。「笑えるよな。オールマイトを相手にする[[rb:好機 > チャンス]]を得て、実際触るところまで成功していながら、土壇場でひとりでヒヨって台無しにしたってことだ。[[rb:無様 > ぶざま]]にもほどがある」 物間は自嘲気味な笑みを浮かべる。珍しい表情だった。どれほどやつれたときにも[[rb:剥 > は]]がれない、いつもの強がった顔つきが、見る影もなかった。「僕はB組の面汚しだ」「おい、やめろよ、そういうの」 つい反射的にかぶせてしまった。思わず拳藤の語気は強まったが、物間はむしろ平然としていた。またはじまったと思われているようで、少しだけ[[rb:気逆 > きざか]]いだけれども、それでも言うべきことは言わなくてはいけない。慎むべきだ。自分自身を貶めるようなことを宣うのも、その理由に「B組」を使うことも。「私、前から思ってるんだけどさ。お前、[[rb:鉄哲 > てつてつ]]とかもだけど、B組B組言い過ぎだぞ。最近はブラド先生まで意識するようになっちゃってるけどさあ」「そういうの、クラス委員長が言うこと?」「あのな。みんなのこと考えてくれてるのはいいことだって思うけど、意識しすぎて無駄に[[rb:A組 > よそ]]を敵視したり自分を苦しめたりするのは、行き過ぎなんじゃねーのかってことだよ」 普段の物間なら、試験中の[[rb:目論見 > もくろみ]]だって、もっともっと得意げに話す。たとえ赤点という結果でも、自分の行いを自虐で締めるなんてことはない。はっきり言って、なんだか異常だ。真夏に雪でも降るんじゃないかってぐらいの。それだけ試験の不本意なしくじりがショックだったのかもしれない。でも……拳藤はうっすらと、それだけではないような予感がしていた。物間は「B組の」と言ったのだ。やっぱり組のことが、何やら物間を歪めているのではないか。単なる勘に過ぎないが、拳藤の勘はよく当たる。「行き過ぎかどうかは、拳藤が決めることじゃないだろ。僕の問題だ。君に僕の何がわかるんだ?」「ああ、わかんねーよ」 拳藤はそう言ってのけたやいなや、[[rb:軽 > かろ]]やかに身を翻して物間の隣にどかりと座る。そして顔を近づけてキッと物間の目を見据えた。思わず物間は首を後ろに反らしたが、拳藤の碧眼は、物間を捕えて離さなかった。ひとひらの怒気も漂わない、きれいな目だった。「だから聴かせて」 そして拳藤は「クラス委員長らしいだろうが」とでも言いたげな、にっこりとした笑みを浮かべた。言葉尻を上手に拾われてしまったな、と物間は渋い顔をする。ささいな死角からまっすぐに、するりと距離を詰められた気分だった。近接戦闘慣れしてるやつは、すぐにこういうことをしてくる。相手の本音などお構いなく。「教えてよ、物間がなに考えてるのか」 なんて大雑把な質問だろう。一体何を聞かれてる? 僕は何を答えればいい? 自分が彼女に知ってもらいたいことって、いったい何があるだろう。 「この組が好きなんだよ」 ほどなく口を開いた物間の言葉は意外にも、とても素直で素朴だった。拳藤が相槌を打つのを待つことすらせず物間はベンチから立ち上がると、真っ直ぐスタスタと歩いて、屋上端の金網の前に立った。拳藤もその隣に並んで、眼下に広がる景色を眺める。高校の広大な敷地、街、その向こうの名山脈群までを一望しながら、物間は続けた。「今までに見たことないぐらい、人の出来たやつばっかりだ。くだらない理由で他人を罵ったり、足を引っ張り合ったり、仲間はずれにしたりもしない。みんな互いをリスペクトしてるし、思いやり合ってるし、ポジティブだ。その上で後腐れなく議論や真剣勝負も出来る。理想的だよ。好きにならないほうがおかしい」 そういう気持ちを物間が持っているということは、なんとなく拳藤も感じていた。物間は、ただの目立ちたがり屋ではない。自分の意見が仲間内で通らないことで不機嫌になるような奴でもない。物間はB組のことが好きで、いつもB組のことを考えてくれているのだ。「あの日までは、A組もそうだと思ってたんだ」 あの日とはもちろん、あの金曜日のことだ。拳藤にとっては、確かめるまでもない。 元々感情が激しく出るタイプの鉄哲が、それを差し引いても荒れた調子でA組から戻ってきたあのとき、B組は騒然となった。特に男子の雰囲気が変わりはじめ、クラス全体に求心力のようなものが生まれ、強くなっていったのはあれからだったと、拳藤も感じていた。外部に共通の[[rb:敵 > ﹅]]が現れると、人はより強く団結する。プレゼントマイクもそのようなことをいつか言っていたと思いつつ、久しぶりに当時を回想した拳藤は、物間の語りのなかにある、何か小さなずれに気がついた。 B組に変化があったのは、金曜日ではない。それは、変化の続きでしかないのだ。 あやうく、あまりにも当たり前のことを見過ごしてしまうところだった。 変化のはじまりは、あの日のさらに二日前だ。 「A組の生徒が[[rb:敵 > ヴィラン]]に襲撃されている。俺は現場に急行する。授業は中止だ。一同教室に待機し、続報を待て」 襲撃事件が起こった水曜日。ブラド先生は突然血相を変えてそれだけ告げると、即座に姿を消した。クラスを託されたのは委員長の私だったが、何か特別なことができるわけじゃない。私たちは運動場から着替えも済ませず教室に戻り、続報を待っていた。詳細な事実がわからず、事態をどう受け止めればいいのかうまく把握できなかった私たちの多くは、元々が個の集まりだという以上に、バラバラになった。襲撃を大したことないものとして取り扱おうとした奴もいたし、少しヒステリー気味なぐらいに不安を叫んで帰りたがる奴もいた。そんな組を見かねて場を収拾し、取り仕切ろうとしてくれた奴もいた。ブラド先生もいなくて、すぐそばで起こっている危機への確かな情報もない。おまけに自分たちを支える強い地盤だって、まだできていなかった。「みんな、わかってんのかな」 どこかそわそわしたクラスメートから少し離れた私の席の傍に、いつの間にか物間が立っていた。「何が?」と応じた私に向かって、彼は言った。「A組には“個性”無効化のイレイザーヘッドがいるんだよ。並大抵の奴じゃまるで歯牙にもかからないはずだ。なのに応援呼んだんだよ? それにウチは全校33組中にヒーロー科は6組しかない。対してプロは何人いると思う? 職員室にはフリーの教師だっているのに、授業中のヒーロー科の担任まで出動した。そういう事態の渦中に彼らはいるんだ」 物間は不安に反応して煽る性質があるというのはそうだ。でもそれだけじゃなかったと、そのとき初めて知った。思えばあのときの物間は、悲痛な顔をしていた。それこそ自分の仲間が傷つけられたときのように。歯がゆそうに。 「A組のこと、まだ顔だってよく知らないけどさ」 そうだ。私はそのとき感心したのだった。広い意味で、仲間思いの物間に。「みんな、無事でいてほしいよ」 私だけじゃないかもしれない。 多くのクラスメートはもしかしたら、自分たちが水曜日にどんな気持ちでいたのかを、ほとんど忘れてしまってるのかもしれない。私たちがその話をすることはもうないし、耳にする話も“[[rb:彼らの > ﹅﹅﹅]]水曜日”や“私たちの[[rb:金曜日 > ﹅﹅﹅]]”に埋め尽くされてしまっていた。 そうやって隠れてしまって話されない“私たちの水曜日”は、風化を免れない。 でも私は、物間の言葉をきっかけに、今確かに思い出した。 襲撃事件が起きたあのときに、[[rb:私たちに > ﹅﹅﹅﹅]]何が起こったのか。「拳藤さ。僕の“個性”の命綱はね、情報なんかじゃないんだよ。 多くの信頼できる仲間、コミュニケーションなんだ。 仲間との和が僕の命なんだよ。 できれば表面上のそれじゃない、本音からのやつ。 そのためには、こちらが先に相手を思いやるのが大切だ。 そうだろ? そういうのってさ、僕の“個性”だけの話じゃないと思わないか?」 物間のその言葉は、本当にずっと前から思っていたことなんだろう。 そして多分B組は、幸い、そういう物間の理想のクラスだったんだろう。 雄英高校が理想通りでよかったって、あるいはそれ以上だったって、素朴に思ってたのかもしれない。 「なのにさぁ、がっかりするだろ。あんなの聞いちゃったらさ」 誰もそんな風には言ってくれなかったけれど、私はやっぱりこう思う。 襲撃事件で傷ついたのは、きっと、本当はA組だけじゃないんだ。 もちろん会敵したのは[[rb:A組 > かれら]]だ。私たちは安全な場所にいたし、命を懸けての抗戦もしなかったし、身体的にはまるで無傷だったのは間違いないけれど。でも、わけのわからないまま教室でオロオロし、不安に呑まれたり、誤魔化したりして、何も知らされないまま授業がなくなって家に帰されて、翌々日まで何ひとつ確かな話を得ることのできなかった私たちも結局、[[rb:敵襲の事実 > ヴィラン]]に[[rb:蝕 > むしば]]まれていたのだ。 だからこそ、組の何人かは、A組を羨んでいる。私たちと違って、戦って抗う機会を与えられた彼らを。どれだけ危険でも現場で、状況を自分の目で見て、どうするかを選択する余地のあった彼らを。 私たちはきっと、自分たちも[[rb:蝕 > むしば]]まれたと気づいていなかった。だから、本当はきっと私たちは、それぞれが自分たちのために何かしなくちゃいけなかったのだと思う。でもそのときに、自身を上手に[[rb:繕 > つくろ]]い損ねた奴が、小さな傷や違和感をそのままに膨らませてしまった。そんな話なんじゃないか。そして私だって例外じゃない。私もまだ、確かな答を持ってるわけではないから。「それに、よりにもよってさぁ、なんなんだよあいつ」 物間の気持ちはきっと、がっかりなんてレベルじゃない。理想とはまるで違うやつの存在と態度が、物間の[[rb:癒 > い]]えてない傷痕を開いて焼いたんだ。物間の語気から、それが伝わってきた。「たったひとりで生きてきて、自分一人だけでどこまでもいけるような、ガキ丸出しの[[rb:傲慢 > ごうまん]]なこと言い放ってさ。しかも敵に襲われたことを心配する周囲に[[rb:唾 > つば]]を吐くような男だよ」 きっと物間は、自分の優しい気持ちを裏切られたと思っているのだ。「冗談じゃないよな。あんなやつが[[rb:雄英一年 > ぼくら]]の顔だなんてさ。ましてあそこはそういうやつがやっていけるクラス、そういう強さがもて[[rb:囃 > はや]]されるクラスなんだぜ」 そんなに極端なやつらじゃないよと、本当は言いたかった。八百万とか、あちらの委員長の飯田とか、鉄哲の[[rb:友達 > ダチ]]になった切島とか……ちょっとずつつながって情報交換してみた感じ、決して物間が考えているようないけ好かない連中じゃない。爆豪のいかがなものかといった性質はあちらだって手に負えなくて困っているし、個の持つ才能、センスの到達レベルの高さは――物間は絶対に口では認めたりしないだろうが――明らかにストイックな[[rb:鍛錬 > たんれん]]の[[rb:賜物 > たまもの]]なのだ。それは同じヒーロー科として、純粋にすごいと思う。別に誰も爆豪の振る舞いを礼賛してるわけじゃない。B組と同じで、20人がそれぞれ、個々人の高みを見据えて、それにたどり着こうとしているだけだ。「一泡吹かせたいじゃん。そういう奴らさ。[[rb:B組 > うち]]の方がいいクラスだ。雄英らしくてさ。あの演習はそれを示せる節目の機会でもあったのに、よりによって僕がさ……いったい何をやってんだって感じだ」 でも、そんなこと言ったところでなんにもならない。物間は論破したいわけでも、されたがってるわけでもない。そして多分本当に、怒っているわけでもない。 彼はただ傷ついてるだけなのだ。 こういうとき、こいつみたいに上手に舌と頭の回らない私ができることは、あんまり多くない。 なんだか自分の手札の薄さ、単純さが情けない気もするけど仕方ない。[newpage]「拳藤、いったい何やってんの」「しょぼくれた[[rb:同級生 > クラスメート]]を慰めてんの」「あ、そ」 夏の日の屋上で、拳藤が背中から僕を抱く。普段からガチガチに体をつくってる武闘派のはずなのに、拳藤の体は触れた感じ、信じられないほど柔らかい。ただ、強くしがみつかれていて、振りほどくのは[[rb:容易 > たやす]]くなさそうだった。ていうか、暑い。7月の、地上30階の屋上庭園の端に立つと、風も少しは吹くけれど、日差しを遮るものが何もないのだ。当然、一人でつっ立ってたって暑い。ましてや……せめて場所を考えてくれないかな。 それにしても気に入らない。拳藤が好意でこうしてくれてるのはわかる。でも僕はそもそも誰かに慰められなきゃならないような、哀れな男じゃない。慰められたくて「面汚し」なんて言ったわけじゃないんだ。僕は拳藤が胸のあたりで組んだ指を引いて、離してくれとアピールしたけど、拳藤はずっとそれに気がつかないふりをしていた。というか無視していた。「なあ、物間」「なんだよ」「だいじなこと話してくれて、ありがと」 拳藤の声が、やけに優しく響いた。「お礼を言われるようなことを話したように思ってないけど」 僕たちは互いに顔も見ずにいたけれど、拳藤が首を横に振ったのはすぐわかる。「お前がどうしてそんなに自分のこと責めてるのか、なんとなく通じたからさ。でもそれ正直、やっぱ重過ぎだと思うけど。でも、それがよくないとか、もう言わない」 僕は結局そこで拳藤が僕の体に巻いている腕を解いてもらうことを諦め、ひとまず自分の腕を下ろそうとした。すると急に拳藤はなぜか、僕の手を握って捕まえてきた。「代わりに、私の気持ちも話すわ」 僕は少しだけ首を動かして後ろを見ようと試みたけれど、どうもあまり上手に出来なかった。拳藤の、サイドに垂らした橙色の髪先がふわふわと風に揺れるのを目にしただけだった。少しだけ長い沈黙を、僕は彼女の髪がやけにきらきらして踊るのを眺めながら待った。「お前がB組好きだって言ってくれて嬉しい」 拳藤が最初に選んだ言葉をやり過ごしながら、僕は再び正面の空を見る。クジラみたいに大きな雲が、音もなくゆったりと深い空を横切っていくところだった。「私も大好きだからさ。みんなのこと」 知ってるよ。 僕は拳藤の握っている手を少しだけ戯れに振ってみせる。「お前が壁作ってひとりぼっちになってるの見るの、つらい」 そう。「お前がなんか[[rb:拗 > こじ]]らせて変なこと言って、他人から誤解されるの見るのも、すごくやだ」 委員長だもんな。お前。「お前に欠けて欲しくないし、できれば、落ち込んでても欲しくないんだよ。 せっかく、いい学校に来て、いい友達になったじゃん? 私らさ。 <更に向こうへ>が校訓で、みんなそれをいつも覚えてる。そういうの、あんまないよね。私、そういうの好きなんだ」 わかってるんだよ。今更ばらばらと言わなくたって。 拳藤が僕のことをたいしてわかっていなくても、拳藤が何考えてるかなんて、僕はもうとっくに全部知ってる。「壁とかいくつあってもさ、一緒に超えて行きたいんだ」 拳藤が握る手に力が入る。本当に、なんなんだよ。 こういうの弱いんだよ。慣れてないからさ。 だからこんなとこに一人でいたんじゃないか。 何が“通じた”だ。何もわかってないよ拳藤は。わかれよ。「勝手なこと言うけど……お願いだからさ」 やけに顔が[[rb:火照 > ほて]]る。それにしてもなんて暑いんだ、今日は。 「元気出してよ」 それからしばらく拳藤は、僕のことを捕まえたままで、クジラが深呼吸するみたいな速度で胸のあたりをタップしていた。ふたりとも言うべきことは言い切ったという感じで、あたりはとても静かだった。「ほら、物間。もう。暑くてしょうがねーだろー。一緒に冷房効いてる[[rb:教室 > とこ]]帰ろうぜ」「こういうの、もう[[rb:止 > よ]]したほうがいいよ拳藤」 僕がそこで少し体を捻ると、ようやく拳藤の両腕がほどかれた。やれやれ、ようやく汗を拭える。ポケットからハンカチを取り出して、顔のあちこちの水滴を吸い取らせ、まあまあ見られる顔になったかと妥協できるところで振り返る。拳藤はそれを見守ってたのか、落ち着いたところになってから訊いてきた。 「こういうのって?」「今に本気にする奴が出てくるってことだよ」 拳藤はまだ「なにを?」というピンとこない顔をしていて、僕は正直しんどくなってきていた。 [[rb:俄 > にわ]]かに信じられないんだけど、本当にわかってないのかな、こいつ。体育祭決勝にも出なかったのにランクの高いヒーロー達からちゃっかり指名[[rb:貰 > もら]]って、CMデビューして、サイトまで作られてるのに。 拳藤は、美人なんだよ。 とにかく信じられないぐらいに、人の心を掴む奴なんだ、こいつは。 ただそこにいて、特になんにもしてなくても、気楽そうに笑ってるだけで場が華やいで明るくなる。そういう奴なんだ。器も心も強くて、同じ場にいるだけでなんだか安心する。勇気をもらえる。言い回しはなんだか乱暴で雑だけど、中身が知的で[[rb:冴 > さ]]えてるからか、さっぱり下品に感じない。むしろ竹を割ったような[[rb:清々 > すがすが]]しさを感じるほどだ。思いつきのノリで話しかけられるだけで[[rb:上気 > のぼ]]せあがる男子だって何人もいる。たとえばここにいるのが僕でなくて[[rb:庄田 > しょうだ]]や[[rb:円場 > つぶらば]]だったりしたら、その後どれだけ面倒でげんなりすることになるか。B組の繋がりがおかしくなって何もかもダメになることだってあるかもしれないのに。 拳藤はそういう人の気を知ってかしらずか、おかしそうに笑いだした。「その手には乗らねーよ。さらっと話題すりかえようとしただろ?」 拳藤はなんだか大層愉快そうにそう言った。ひょっとして、こちらの[[rb:企図 > きと]]を見破ったつもりでいるのか。全然そんなんじゃないのに。むしろそろそろ見破れ。「私も恥ずかしいこと言ったんだから、お前も照れてないで、ちゃんと言えよな」 照れてない。 ていうか、恥ずかしいって自覚はあったのか。今度は、ハンカチを戻してポケットに突き刺したままの僕の腕を捕まえると、拳藤は追い詰めた風の顔でいる。いかにも得意げだ。ああ、本当にこいつはなんなんだろうな。どうして僕は拳藤に対して、こう、負けっぱなしなんだ?今だって正直言って、もうお手上げだ。拳藤とやると、結局最後はこうなるんだ。認めるしかない。「……来てくれてありがとう」 僕は追い詰められたのだ。「すごく嬉しいよ。元気出た」 予想通りの、いつものやつ。 拳藤は僕の頭に手をぽんぽんと無造作に乗せて笑った。「よろしい」 拳藤はやがて満足した様子で歩き出した。屋上の[[rb:縁 > ふち]]、金網に沿ってゆっくりと歩いていく彼女の姿を少し後ろから眺めていると、彼女が不意に何かに[[rb:躓 > つまづ]]いたように、よろめいた。「おっと」彼女が[[rb:咄嗟 > とっさ]]に体を支えようと伸ばした手が金網を掴んだように見えた。けれども拳藤の手は、そのまま金網をすり抜けて空を切った。そしてそのまま拳藤の腕がみるみると金網の向こうへ吸い込まれるように引きずりこまれていく。空中に投げ落とされていくみたいに。その現象の源に思い当たり、[[rb:怖気 > おぞけ]]が走った。 骨抜が帰ったのは、何分前だ?僕の“コピー”が変調してないことを確かめるために、質問しながらつくった沼はいくつあった?骨抜の“柔化”は、一度にどれほどの範囲を柔らかくできるんだ?柔らかさの程度は?そしていつまで継続するんだ? 今もしもあの金網が、無いのと同じだとしたら。 ここは摩天楼の屋上だ。 落ちて助かる高さじゃない。 僕は駆けた。拳藤の体はもうほとんど[[rb:外 > ﹅]]に出てしまっている。 一瞬僕の脳裏に昨日の、土壇場でしくじる己の姿が浮き上がる。 ああ、畜生! 邪魔すぎる!! そういう目障りなの今いいんだよ!! 僕は自分の体を投げ飛ばすようにして腕を伸ばす。拳は[[rb:巨 > おお]]きく膨れ上がって黒い網を突き破り、空に落ちる拳藤を捕まえ、包み込む。そのまま彼女を力任せに屋上に引き戻すと、そこで精魂が尽きた。倒れこんでくる拳藤を抱き止めるが、戻ってくる勢いに耐えられなくて、ぼくはそのまま仰向けに倒れた。 なんだよ、ちゃんと発動するじゃないか。肝心なときだって。 僕は[[rb:安堵 > あんど]]しかけた。でもはっきりいってそれどころではなかった。心臓はさっきからバクバク鳴っているし、太陽に何時間も熱された地面に背中を灼かれている。そして情けない事に、ほんの一瞬の間で、[[rb:途轍 > とてつ]]もなく消耗してしまったみたいだった。 今の刹那は正直、生きた心地しなかったな。 なんか、一瞬で、出尽くした。 まるで体力が残っていない。 昨日の疲れが残っていたってことなのかもしれない。 みっともない話だ。 みんなの半分ぐらいしか、起きていられなかったっていうのにな。 ほんと[[rb:憾 > うら]]むぜ、オールマイト。 いや、そう思ったものの、って感じだ。 トップヒーローって、そういうもんなのかな。 昨日あれだけ僕を酷い目に合わせたばかりだというのに、結局個性の謎だって隠したままにしてるっていうのに。もっと憎らしく感じても不思議じゃないのに、実際に思い起こすのは、あの笑顔だった。 オールマイトのことは、もちろんすごいヒーローだとは思っていたけど、別にもともとそれほど好きってわけでもなかった。 なんだかメジャーすぎるし、求めるスタイルが違うから。 でも、教わってよかった。 今年のヒーロー科一年で、彼に習えてよかったよ。 おかげで、これだけ呼吸が整わず喋るのも苦しいっていうのに、やらなきゃいけないことをしそびれずに済んだ。「もう大丈夫だよ、拳藤」 僕は自分の体の上に乗っている彼女の背中にどうにか腕を回し、ぽんぽんと手を乗せた。その手だって動きはぎこちないもんだったが、拳藤の体が震えているのが、とても痛ましくて、とにかくそれを止めてあげたかった。「安心して」 拳藤の頭がちょうどぼくの顎の下あたりにある。おかげで顔は全く視界に入らないが、彼女が首を縦に振るのが胸の感触でわかった。「ごめん、なんか、全然、体に……」 声も震えてるのに、無理してそんなこと言わなくたってわかるのに。力が入らないってことは。僕だって同じだ。どうせ次は「重くてごめん」とかなんとか言おうとするんだろ。気にしなくていいのにな。言うほど重くもないし、正直呼吸はしづらいけど、全然たいしたことじゃない。「ごめん、重いよね」 ほら。「別に。拳藤、息は苦しくない?」 拳藤が頷くのを感じつつ、彼女の髪が地面に触れているのに気づいて、それをどうにか動く右腕で掬い上げる。毛先の砂を払いながら、僕はなぜかまた演習試験のことを考えていた。 あの演習試験は、成長度や相性、欠点、諸々配慮された上での組み合わせだったことは僕だってわかってるんだけどさ。もし相棒が拳藤だったらなあ。違うやり方でも結構いけたんじゃないかな。[[rb:巨 > デカ]]い拳が4つ並ぶ絵面はそれこそ[[rb:漫画風 > コミカル]]で愉快だし、単純に強力だ。息も合わない方じゃないだろう。 少しずつ調子が回復してきたので、僕は拳藤に合図し、上体をゆっくりと起こした。拳藤と手を取り合って、どうにかふたりとも上手に立ち上がる。びっくりしたとか、暑いとか、死ぬかと思ったとか、少しずつ言葉が戻ってきて言いたい放題言い終えたあとに拳藤は呟いた。「お前、結構優しいこと言えるんだな」 すぐにまたこういうことを言う。「なんかちょっと、ドキドキした」 [[rb:止 > よ]]せって言ってるのに。よりにもよってこういう吊り橋効果みたいなタイミングで、そういうこと言うよな、こいつ。勘違いさせるようなこと言わないでくれ。別に拳藤に限った話じゃない。誰であったって救けたし、誰であったってフォローした。ヒーロー科なんだから、あたりまえのことをやっただけだ。 そう頭の中で言葉を練ったとき、僕はなんだか、とんでもない思い違いに気がついた。 今しがた感じたワクワクは、試験前に、オールマイトの“個性”をコピーできる予感へ感じたそれとは全く違う高鳴りだった。そしてそれはおそらく、拳藤に限った話ではない。 どうして僕は、もっと仲間の力を借りなかったのだろう。仲間の信頼が命綱だと認識していながら、どうして僕は、敵の“個性”を奪い取る方法を選んで譲らなかったのだろう。 それが最も勝率が高いから? 違う。 相棒が近くにいなかったからか? 違う。 それが、僕の“個性”が最も[[rb:映 > は]]える華やかなやり方だからだ。調子に乗っている[[rb:枉逆者 > おうぎゃくもの]]を、そいつ自身の[[rb:傲 > おご]]りの源[[rb:そのもの > ﹅﹅﹅﹅]]で斬って払うのが、この種の“個性”が持つ[[rb:醍醐味 > だいごみ]]だ。いつからか、なぜか、そう思っていた。でも、もしかして、本当はそうじゃないんじゃないか? どうして僕は、もっと仲間に力を貸さなかったのだろう。もっと勝算の高いやり方、誰も捨て身の無茶をせずに攻略できる方法だって、いくつもあったんじゃないのか。仲間の個性が倍になる。そういうアドバンテージを与えながら、戦略を選り抜いて実現することにだって、僕の[[rb:真髄 > しんずい]]があったかもしれないじゃないか。 独り[[rb:善 > よ]]がりのやり方に固執して、自分のことばかり考えていた。 なんだよ。 僕が教師側だったら、そんな奴はどんな手を使っても、潰して当然だ。 僕が最も嫌悪し[[rb:唾棄 > だき]]する振舞そのものじゃないか。これは、言い訳ができない。 仲間が命綱だと、自分の口から言っておいて、そんなわかりきったことに気付けてなかったなんて。いかにも間の抜けた、アホくさい話じゃないか。そういう奴には、補習が要る。あたりまえだ。 ぼくは長く深いため息を吐いた。ずっと気づかないでいた胸のつかえが見つかって、自然に熱に溶けていくように、消えてしまったみたいだった。薄い風がそよぐ。なんだかやけに大変な目にあった割に、気持ちは清々しかった。「拳藤」 珍しく、自然と素直な言葉になった。「ありがとう。本当に」 急にふにゅっ、と頬を[[rb:摘 > つま]]まれる。思わず僕は目を[[rb:屡叩 > しばたた]]かせてしまう。拳藤の碧い眼がくるりと何かをなぞるみたいに弧を描いて、僕の瞳の奥を見つめた。「[[rb:寝惚 > ねぼけ]]てんのか? お前が私を[[rb:救 > たす]]けたんじゃないか」 普段、僕のことを手刀で寝かす側の台詞としては、「寝惚るな」はなかなか気が利いてる。まあ、実際そうかもしれないな。この際それも認める。今日はなんだか自分らしくなかったが、きっと寝惚てたんだろう。こいつに[[rb:抓 > つね]]られたおかげで、なんだか目が[[rb:醒 > さ]]めたような気がする。「ありがとね。[[rb:救 > たす]]かった」「どういたしまして」「なあ、ちゃんと打ち上げ来るよな」 でもなんだろうな。素直なことを話すのもいいけれど、なんだか拳藤には、ちょっと思ってもいないようなことを言ってみたくなるのだ。 「それ、僕も行ってもいいの?」 そのせいなのかもしれないと今更気づいた。拳藤がぼくのことをよくわからないでいるのは。 でも、わかられるのって正直、照れるだろ。「さっきからどうしたんだよ。最初からお前に打ち上げに来てもらうために探しに来たんだろうが。当たり前だろ? アホか」 そして拳藤はようやく的を[[rb:射 > い]]たことを言った。「ああ。確かにそうだったね」 ぼくはアホだ。[newpage]「あ、物間だ。おかえりー」「拳藤おつかれ、おかえり!」「ただいま」 物間は施設部の職員に連絡して謝り、拳藤から叱られ、屋上の一角をキープアウトにしてもらったのを見届けてから、ふたりで教室に帰ってきた。入り口近くに陣取っていた[[rb:回原 > かいばら]]に二の腕を突かれ、物間はポケットから拳を引き抜いてこれに二度打ち合わせて応じる。「あんま心配させんなよ、物間」「悪かったよ」 物間はそのまま前列奥の席まで歩き、机の上に座っていた男子に向かって頭を下げた。「さっきはごめんな、骨抜」「おう。機嫌直ったのかよ」「おかげさまで」 物間の差し出した手に向けて、骨抜は腕組みを解いて右手を伸ばすが、すんでのところで物間がその手をさっと上に[[rb:退 > の]]けた。骨抜は苦笑しながら物間の脚を蹴る。「なんだよ」「大変だったんだぞ、あの後」「へえ、なんで?それ俺絡みの話か?」「あとで話すよ」そう言って物間も苦笑し、それから二人は手を強く握り合った。その様子を見ていた、骨抜と同じ机に掛けていた[[rb:柳 > やなぎ]]が首を少し[[rb:傾 > かし]]げる。「[[rb:一佳 > いつか]]、かなり心配して探しに行ったんだよ。ちゃんとお礼言った?」「言ったよ。柳も心配してくれたの?」「別に」 つれないなあと物間が肩をすくめると、骨抜が目線で「気にしないでくれ」と合図を送る。わかってるって、柳は拳藤の肩持つ方だしね。「打ち上げの話、聞いた?」「うん。僕も行くから、よろしくね」「よかったー、これで全員で行けるね! ブラド先生も来るんだよ、ワクワクしてきた!」 そばにいた[[rb:小森 > こもり]]と[[rb:取蔭 > とかげ]]が胸を撫で下ろす。そして教室の中央、わらわらと男子が[[rb:集 > つど]]ってるとこの真ん中にいる鉄哲が声を掛けてくる。「おーい、物間、拳藤。聞け、お前らがいない間に新情報あるぞ」「ばッか、鉄哲! よせって」 前の席にいた円場がやけに慌てて振り返り、鉄哲を制する。「なんだよ、みんな知ってることだろうが。ふたりをハブにすんなよ」「そうじゃねえけど、伝えるタイミングってあんだろ」「んなもん、それこそ早いほうがいいに決まってるじゃねえか」 B組では見慣れた光景だが、ふたりはついやいのやいのと揉め始める。すぐそばの[[rb:角取 > つのとり]]がおろおろしてそちらと物間、拳藤の方を交互に見る。「一体なんの話だよ」 物間は「またくだらない話じゃないだろうな」といった[[rb:態 > てい]]で鉄哲の机に手をついて[[rb:訊 > たず]]ねた。これみよがしにため息をつく円場。そして鉄哲はこともなげに言う。「A組、赤点5人も出たってよ」「物間、完全復活しちまったなこりゃ」「だから言ったのに」「なんだよお前ら冷てえな、完全復活が一番いいに決まってんじゃねえか!? なあ塩崎」「私は何をもって完全復活とするかによると思います」「復活ったって、物間も赤点なのは変わらないしね」「合宿中の補習ってやっぱり徹夜かな」「A組の補習の子たちと一緒にやるんでしょ、きっと。この際仲良くなってくれればいいのにね」「無理だろ」「じゃあ、やっぱりあいつひとりぼっちじゃん」「かわいそうだよね」「柳、お前どうせ宵っ張りだろ。差し入れでも持ってってやんなよ」「やだ」「まあまあ。起きてるやつで行ってやろうぜ」「そのへん、打ち上げのとき相談しようよ」「ん」