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からあ


第三十八話 「殺意」

 その日、少年は幽閉された。

 周りを満たすのは冷たい水。
 遠ざかる意識が、まるで夢のように感じた。

 息を漏らすたびに湧き上がる泡の群。
 視界を登っていく無数の気泡に微睡みを覚える。

 少年は考えた。明日の事を考えた。

 ──ひとつ、おやつのことを考えた。
 ──ふたつ、絵本のことを考えた。
 ──みっつ、「母」のことを考えた。

 一度、瞬きをしてみる。

 すると一瞬だけ映し出される景色。

 その中に映る母の顔は水に揺れてよく見えなくて、何だかとても不安に感じる。

 ────ここは冷たい水の中。泡だけが、友達。

 ふわふわとした世界の中で、どれくらい眠っていればいいのだろう?

 そんなことを最後に考えながら、少年は静かに瞼を閉じた。

 感ていた冷たさは、いつの間にか消えていた────

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 ────僕は、井伊月重吾。

 気がつくと、天井が目の前にあった。
 どうやら眠っていたみたい。憶測し、起き上がる。

「…………あれ?…………あれ?」

 まるで夢のような心地。
 体に疲労は無く、痛みもない。
 ゆっくりと立ち上がり、辺りを見渡した。殺風景な身周りを眺めた。
 ここは────そうだ、避難シェルターの中だ。
 我が身を一度見下ろし、そして脚を動かす。人の気配どころか音も存在しない世界を、静々と歩く。
 シェルターの外も同様に、誰も存在しなかった。
 怪訝に思い、眉を寄せる。
 確かに学園の中なのに、生徒や教師が居ないのは何故なのだろう。もしかして、ここは知らない場所なのか?

 ────おはよう。

 不意に聞こえた少女の声に、意識が反応した。
 微かだが、確かに人の声だった。どこかに居る。
 何故だか無性に急いた気持ちが溢れ、早くその声の主に会合したいと感じた。だから本当の学園かどうかも怪しい場所を、ひたすらに走る。走る。そして、辿り着く。

「…………桜?」

 開けた場所に出ると、そこは一面の花の世界だった。
 緋色の桜が満開に咲き誇り、風に揺れている。そしてその桜吹雪の中で、一人の少女が立っていた。

「君は…………誰なの?」

 問うと、少女がクスリと笑った。

「嘘。知ってるクセに」

 知ってる。知ってる。────……いや、知らない。
 少女の面影など、誰にも重ならない。記憶の中で少女と該当する者は一人もいない。だから判らない。

「…………まあ、誰でもいいや」

 あれ? おかしいな。……僕って、こんなに冷たかったけ?

「酷いわ。貴方って冷たい人……」

 うるさいな。わかってるよ。

「うるさいな。わかってるよ。────あれ?」

 ハッとし、己を疑った。信じられなかった。
 口から零れた言葉は乱暴なもの。明らかな怒りを含めた、苛立った言葉の塊。
 口元を押さえ、後ずさる。
 その姿を、桜の中の少女は見つめる。

「………………」

 無色透明の硝子のように透き通る、少女の青い瞳。
 それを見ていると、ざわざわと胸が騒いだ。
 重く、重く、気持ちの悪いモノが溢れてくる。

「…………そんな目で見ないで。私だって、好きで貴方に嫌われたいんじゃないわ。……好きでいたいわよ」

 裸足の少女はつま先を立てる。

「………………嫌いだ。僕、君のこと、嫌いだ」

 拒絶する。
 それに少女は一瞬だけ悲しそうな顔をし、そしてはにかんだ笑顔を見せた。無理をした表情で。

「私は、貴方のこと、好きよ?」
「うるさい」
「ねえ……なんで嫌いなの?」
「うるさい……っ」
「私が、悪い子だから?」
「うるさいんだよ! 喋るなよっ!!」

 収まりが効かない怒り。その矛先は当然、少女に向かう。

「嫌いだ! 嫌いだ、嫌いだっ! 君は何でそんなムカつくんだよ……っ。会ったことも無いクセに……無いクセに!」

 ────本当? 本当に会ったことが無い?

「ああ、もうっ! どっかいけよ!」

 ────違う。僕は知らない。寝てたから知らない。

「一夏くん……お姉ちゃん……みんなはどこなのさ! 僕を一人にしないでよっ!」

 ────何か忘れてないか? とっても大切なことを。

「どこだよ、ここはさぁ……帰りたいよ……」

 舞う、桜の花。
 少女は──少年を静かに見つめ続ける。

「……ねえ。私のこと、教えてあげよっか?」

 蹲りから顔を上げると、少女がこちらを見下ろしていた。
 それに不快さを感じながらも、ゆっくりと頷く。知りたいと思ったから頷く。

「…………そ。じゃあ、教えてあげるね」

 目の前の少女がクスリと笑う。急に妖艶な雰囲気を醸し出し、膝を折って目線を合わせてくる。

「私の────名前はね?」

 艶やかな唇。まるで少女のものとは思えない。その瞳も、その身姿も、やっぱり記憶の中には存在しない。

「…………あらら。いけないわ、私ったら」

 突如、何かを思い出したかのような反応を見せる少女。
 思いがけぬおあずけに、思わず目を見開く。

「待てよ! お前、誰なんだよ!?」

 言え! 言ってくれ!
 胸の中の自分がそう叫ぶ。

「だーめ。だって、貴方には時間が無いもの」

 けれど少女────彼女は焦らした。

「…………そうかい。まあ、いいや」

 嘘。本当は知りたい。彼女のことを知りたい。

「ふふ。大丈夫よ。いつでも会えるもの。また……お喋りしましょ、井伊月くん♪」
「僕は嫌だね。君なんかゴメンさ」
「もうっ。本当に貴方って冷たいのね」

 苦笑する彼女はなんだか楽しそう。
 思わずつられて笑ってしまう。

「はーあ…………楽しかった。ありがとね?」

 名残惜しそうに後ろで手を組む彼女。
 それを見つめていると、不意な睡魔に襲われた。

「うぅ……なに、これ…………気持ち悪い」

 フラフラと視界が揺れる。
 急に辺りに光が満ちて、目の前が白に染まる。
 少女はその光に呑まれて、今は声だけしか聞こえない。
 吐き気に似た衝動に耐えながら、その声を聞き取る。

「ひとつ、いいことを教えてあげる。もし、誰かを殺したいと思った時……そんな時がきたら、貴方が大切だと思う人を思い出して。そうすれはきっと、貴方はずっと貴方のままでいられるわ………絶対に」

 不思議なことを言う。誰かを殺したいなんて、一度も考えたことはないのに、無意味だ。

「いいえ、大切なこと。だって貴方は一人だもの」

 ────…………知ってる。

「…………そう。なら、いっか」

 悲しいような、苦しいような、難しい声。
 その声を聞きながら、落ちる感覚に全身が包まれる。
 ────きっと夢から醒めるのだ。
 そう考えながら、微睡みに体を預けた。

「いい? わたしが言ったこと、憶えておくのよ? じゃなきゃ本当に、貴方は一人ぼっちから抜け出せなくなる。それは、絶対に嫌でしょ?」
「…………うん」
「だったら、絶対に忘れないで。……絶対に」
「わかったよ……。わかったから、もう話しかけないで。なんだかとっても眠いんだ………ごめん」
「なんだ、謝れるんじゃない。優しいのね」
「…………」

 別に────そう言いたかった。けれど、もう、

「じゃあ、またね────重吾」

 一瞬だけ、眩い光の中で見えた彼女の姿。それは初めに見た純白の花とは違うく、何故だか更識楯無に似ている気がした。

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 ──

 まるで誰かに起こされたように、目が覚めた。
 グルグルと回る脳みそ。
 訳も分からず地を這って、一番光源の強い場所を目指す。
 けれど、それは間違いで、嫌なものを見てしまう。

 ────赤い色。大量の血だ。それが視界に飛び込む。

 辿るようにその血痕を追うと、行き先には壊れた人形があった。しかしよく見るとそれは人形などでは無く、

「………………織斑……先生……?」

 ボロボロに朽ちてしまった、織斑千冬だった。

 ────もし、誰かを殺したくなった時、大切な人を思い出しなさい。そうすればきっと、貴方は貴方でいられるわ。

 ふと、その言葉を思い出したけれど、目の前でその大切な人が奪われてしまったら、その時はどうすればいいんだろう?

 僕は、そんなことを考えながら、熱い何かを感じた。



続く