ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 はせべのなみだこれくしょん2015年5月25日 00:46[chapter:Perfect Holiday]※長谷部の一人称「おい」と呼ぶ山姥切国広の声が聞こえたが、俺は振り返らない。今は忙しいんだ。 ゴム手袋を装着した左手で風呂場のタイルに洗剤を吹きつけ、水を含ませたスポンジで一気に擦れ。腕がつりそうなほど全力で磨き上げろ。泡を水で流せば、汚れの取れたその部分だけまるで新築のようにピカピカである。輝くタイルににんまりとした顔が映っていて清々しい。 ずっと気になって仕方がなかった本丸の風呂場の汚れ。休日の今日、やっとかゆいところに手が届いた。朝9時半から最高の爽快感だ。 さあ、10時までに、温泉旅館並みに広い風呂場のタイルを全て磨き、浴槽掃除に移らなければ。俺の計画では11時半までにはがさつな刀剣男士たちによって汚されてしまった不幸な風呂場の未来を修正し、少量の昼食を口に入れたあと、12時半からは達成感を抱きながら30分の昼寝、その後最近流行りの映画を観に出かけて、帰りはベルギーバーでフライドポテトをつまみにビールを味わう。完璧な休日だ。「長谷部」 なんだ、まだ用があるのか。お前の用事はこの自主的な風呂掃除よりも優先順位が高いことなのか。こんなに綺麗にしてやっているんだ。考えて話しかけているんだろうな、あぁ? 俺が視線だけ向けると、いつもと違い布を纏っていない山姥切が素足でタイルの上に立っていた。そして右手に持った便箋を見せてくる。「この恋文、あんたのか」 俺は、ハッと鼻で笑った。「だから?」 そしてまたタイル磨きに戻った。先程よりもより激しく腕を動かす。 山姥切は一向に去る気配がない。まだいるのか。今すぐに俺の視界から消えろ。 泡を流すふりをして、山姥切にかかるよう、わざと勢いよく洗面器の水をタイルにぶちまけた。 しかし山姥切は濡れても顔色ひとつ変えない。その態度が余計に苛立ちを増幅させた。 何が今更「この恋文、あんたのか」だ。読めばわかるだろ。その手紙は4ヶ月前に書いて、お前へ貸した本に挟めてあったんだ。4ヶ月も人の恋情を放置しやがって、どのツラ下げてノコノコ持ってきやがった。とっくの昔にその恋文の有効期限は切れてるんだよ!「……すまなかった」 もうどうでもいいから本を返せ。 謝る山姥切から足元へと目線を移して、乱暴にタイルを磨く。 浴室に響くのはスポンジの擦れる音だけ。もしかすれば俺の息切れや山姥切の謝罪があったかもしれないが聞こえないふりをする。俺の完璧な休日に不必要なものは全て却下だ。「邪魔だ。どけ」 山姥切がしゃがんでいる足元を磨きたい。 こいつはずっと俺から視線をそらさない。絶対に目を合わせてやるものか。 動く様子がなく、俺はタイルを磨きながら、山姥切の素足にスポンジをガンガンとぶつけた。 どうだ痛いだろ。洗剤で足が荒れるぞ。なあ、痛いよな。痛いって言えよ。言ってくれよ。 山姥切の足元以外全て綺麗になった頃、低く小さいがしっかりとした声が耳に届いた。「……今日、カップルで映画を観ると半額になるらしい」「へぇ」 ああ、知ってるさ。完璧な休日を過ごしたい俺が調べていないはずがない。「付き合ってくれ」 ようやく言いやがった。「今日だけでいい」 不必要に付け足された言葉を聞き、ついにキレた俺は立ち上がると、しゃがんでいた山姥切の頭の上で水の入ったバケツをひっくり返した。 それでも怒りは収まらず、首根っこを捕まえて殴ろうとした。しかし、山姥切は先程から目をそらすことなく真っ直ぐに俺を見つめていた。「明日からは俺が恋文を書く。毎日」 山姥切が握りしめていた俺の恋文は、バケツの水でぐしょぐしょに濡れていて、こいつの無関心な態度に4ヶ月も泣かされた自分みたいだった。「当然の延滞料だ」 口にできたのは精一杯の矜持だった。 またしゃがみ、スポンジを持って、ささくれた恋心をタイルにぶつける。 無言でタイルを磨く俺の顔に山姥切の手が伸びる。 おい、濡れた手で涙を拭うのは止めろ。余計に濡れるだけだろう。[newpage][chapter:XYZに乾杯]※山姥切国広の一人称※審神者は出てきませんが、長谷部→審神者あり 傷心している男というのは、どいつもこいつもジャズに耳を傾けながらグラスの氷をカランと鳴らしてウイスキー・マックを舐めるのだろうか。結婚式帰りの着崩れた準礼服で、カウンター席の隅に人一人分の間をあけて並んで座り、ほのかに甘い琥珀色の液体を舌の上で転がす俺達ははたからはどう見られているのだろう。 今日は審神者の結婚式だった。五月の清々しく晴れた空の下で愛を誓い合う二人は政府の検定済み教科用図書に載っていそうな理想的男女であった。だから皆……と言ってもうちの本丸に刀剣男士は6人しかいないが、ディレクターズスーツやブラックスーツに身を包み、結婚式と披露宴に出席して盛大に祝った後、飲み足りない語り足りないということで、近くのニューヨークスタイルのバーに来て飲んでいた。 二人掛け用の黒い革張りのソファに陸奥守と五虎退が、一人掛け用には獅子王と三日月がそれぞれ腰掛け、俺達から少しだけ離れたところでポーカーに興じている。 背中に四人の和やかな雰囲気を感じながら、少し暗めの照明の下で、俺はただぼうっとしていた。グラスの表面を濡らす水滴を眺めながら、アルコールが頭に回るのをじっくりと待っていた。 上着を脱ぎ、アスコットタイを解いた長谷部は、右手で口紅をいじる。黒い筒に銀の装飾。くるりくるりと回している。何か考えているようでいて、きっと頭は空っぽだ。 あの紅は今年の春の新色だったと記憶していた。街を歩いていたとき、たまたま見かけて衝動買いしたものだ。あの色に惹かれてしまったあんたの横顔は今でも脳裏から離れない。華やかに艶めき、水のような潤いを持つ、鮮やかな赤。それを恋慕しているあの人がつけたならと不埒で自己満足な夢を描いてしまったんだろ? らしくなかったな。頭をよぎったささやかな幸福にとりつかれて、自分が抱いている想いは決して成就しないという事実すら忘れてしまっていたんだ。 俺の予想通り、あんたは世間体と常識と冷静な状況判断に欲望と恋心を邪魔されて、何もできなかった。ただ毎晩、手元で口紅をくるりくるりと回すだけ。あんたは正しい。婚約者がいる相手に恋情込めて口紅を贈るなんて自分勝手なことが許されるのはご都合主義なおとぎ話の世界に生きる勇者様だけだ。現実世界で泥まみれに戦う刀剣男士にそんな肩書きなどありはしない。そして審神者は俺達に結婚を伝えた。幸せそうな顔だったな。ついにあんたは口紅を渡せずじまいだった。 あんたと俺は度々酒を酌み交わしたが、結局何も話してくれなかったな。戦闘後の無言の夜も、誉を貰い会話が弾んだ夜も、そのまま寄り添って寝てしまった夜もあったが、心の中に渦巻く葛藤を口にしてくれることは一度もなかった。ただ静かに口紅を回すだけで、涙の一筋すら見せてはくれなかった。 毎日毎日、あんたがその口紅を見つめるたびに、俺は毎日毎日失恋をした。「次の審神者はどんな奴だろうな」俺は言った。 今の審神者はしばらく産休に入るということだった。おめでたいことばかりだ。「さあな。俺は命令に応じるだけだ」 長谷部は無感情だった。グラスが揺れれば、またカランと涼しげな音が隣から聞こえた。 公務員も大変なもんだ。次の審神者はどこの地方からの転勤だろうか。誰かが空気を作った本丸を引き継ぐのはさぞやりづらいことだろう。ほかはどうだかは知らないが、うちの本丸の審神者は八時から十七時勤務の普通の公務員だった。俺達は本丸を居住区として各々部屋を与えられながら生活していたけれども、審神者は十七時になれば退勤する普通の労働者だった。そういう普通の生活の中で出会った恋にあんたは負けたわけだ。 俺達の背後から四人の楽しそうな声がする。心の底から審神者の幸せを祝福できる奴らの声だ。「ロイヤルストレートフラッシュじゃ!」我らが隊長陸奥守吉行は今日も強い。勝利した陸奥守は先ほど頼んだ酒を飲み切ったのだろう。店員を呼んでいた。 本当にあいつらはいい奴らだ。俺達はいつまで経ってもこうやって人一人分の間をあけて酒を飲んでいる。毎日失恋を重ねるばかりで、一向に手を伸ばして状況を変えようとしない様子は随分ともどかしく、苛立ちすら湧き上がるだろうに、それをおくびにも出さないで、いつも優しく見守ってくれている。 残りの酒を一気に流し込めば、頭がクラリとした。大して強くもないのに、変な意地を張って、よく知りもしないで長谷部と同じ酒を頼んだのだからそうなるに決まっていた。ウイスキー・マックっていうのはこんなにきつかったんだな。俺はまだ一杯目だというのに、隣の長谷部はすでに5杯目を平然な顔して飲んでいた。 店内に流れるジャズに混じってカウンターの中からカタカタとシェークの音がした。バーテンダーの手の中でステンレスのシェイカーがなめらかに揺れている。 カラン。 横では長谷部がグラスを空けていた。俺は長谷部が度数の高い酒を淡々と飲んでいる姿が好きだった。長谷部の手元から鳴る、氷の澄んだ音に惹かれていた。 俺は酔ってしまったんだろう。 気がつけば、手を伸ばし、長谷部から口紅を奪っていた。蓋を取り、口紅を見れば、未使用の鮮やかな赤がある。左手人差し指で拭ってもその鮮やかさは変わらない。あの日、長谷部と街で見かけて取りつかれてしまった色そのままだった。 右手で長谷部の顎を掴んで、顔をこちらに向けさせると、目じりから頬に一筋つうっと紅をさした。 手を離し、姿勢を直して眺めた。 完璧な風貌を持つ国宝様に薄いルージュ。余計なものが混ざって不完全になる。全美な無機物から月並な有機物に成り下がる。 ほの暗い心地よさが頭の隅にジワリと広がった。 ふと、俺達の前にカクテルグラスが二つ置かれた。小さなグラスに白い液体が注がれている。涼しげな雰囲気があるその酒を俺は知らない。バーテンダーは帰るところだった陸奥守を示して、言った。「X-Y-Zといいます。あちらの隊長さんからですよ」 バーテンダーの言葉に、俺は入口を見た。獅子王が六人分の会計をしている。店のドアを開けて立ち去ろうとしていた陸奥守は振り返り、二カっと笑うと、口を開いた。「いいかげん、はーとぶれいくは最後にせい!」 三日月がにやりと微笑み、「今日は帰ってきてくれるなよ。俺はぐっすりと眠りたいのでな」と付け足してくる。五虎退が首を傾げる隣で、獅子王が三日月を肘で小突いた。 そして四人は軽く手を振ると、外へ出て行ってしまった。 にぎやかな雰囲気を作ってくれていた四人が店から消えて、店内はわずかな人の気配としっとりとしたジャズの音だけしかしない。 目の前に置かれた白い液体が、今日の晴れの姿を思い出させた。だから隣を見た。いなくなってしまうんじゃないかと怖くなって、腕を掴んだ。 振り向いたあんたは綺麗だった。 頬のルージュの上を透明な一筋が流れていって、あんたはまた完璧なものになっていた。 無性にムカついて、俺はまた胸倉を掴んで引き寄せると、強引に口づけた。乱暴で優しさなんてこれっぽっちもこもっちゃいない口づけだ。だけれども、この強く押しつけるような接吻が俺達のファーストキスだった。 唇をゆっくりと離すと、困ったような不安そうな顔をした長谷部がそこにいた。ゆっくりと口を開き、涙声で聞いてくる。「俺達、なにをしているんだ」 潤んだ瞳と震える声は、まるで家に帰れず泣く迷子のようだった。 今更な言葉だが仕方がない、教えてやるよ。「恋してんだ」 瞳をそらさずに、力強く断言すれば、長谷部はもう一筋涙を流した。「そうか……」「ああ」 俺はカクテルグラスに手を伸ばした。レモンのさわやかな酸味と甘苦いキュラソーの味が一つに溶けあう、飲みやすい酒だった。長谷部も静かに酒を傾ける。 あんたも俺も、そろそろ前後不覚となってきたんじゃないか。「今日、帰れないらしいぞ」 俺が先程の三日月の言葉を伝えると、長谷部は少し間を置いたあと、あっさりと言った。「なら、ホテルにでも行くか」「ああ」 俺は同意した。 もうすこし酔っ払って、酒の勢いでいいから、一線を越えよう。 俺達は飲みかけのグラスを合わせた。 最後の失恋に乾杯。[newpage][chapter:光る布] そよそよ。さらさら。ふわふわ。それにかすか混ざる土の匂い。 柔らかい風に頬を撫でられて、長谷部は目を覚ました。眩しさに目を細めながら、頭を動かすと、襖が少し開いていて、初夏の空気が手入れ部屋に流れ込んでいた。 俺はどうしてここにいるんだ? 布団に包まれながら、うとうとと記憶を辿る。 確か、最後の記憶は戦に出ていた時だ。湿地帯だった。ぬかるみに足を取られて、敵の急所を狙う一撃を肩から腹にかけて浴びた。泥の中に倒れ込み、瞼を閉じる前に視界へ飛び込んだのは、白く光る布。高く舞い、俺にとどめを刺そうとする敵へ空中で斬りかかり、そして赤く染まり……。 そこまで思い出し、長谷部は左手が握る布に気づいた。あいつの布だ。泥と血にまみれている。 長谷部は飛び起きた。心臓が激しく脈打ち、体の震えが止まらない。部屋を見回すが誰もいない。誰も。誰も。誰も。 布団が一つ敷かれただけの、がらんとして静まり返った部屋に圧迫されて殺されてしまう。逃げ出すように長谷部は寝間着のまま部屋から飛び出した。「どこだ! どこにいる!」 布を握りしめたまま、長谷部は広い屋敷を探す。「国広、どこだ! どこにいるんだ! 国広!」 目につく扉という扉を開けて、山姥切の名前を叫んだ。 いない、どこにもいない。寝起きで嗄れた喉が割れそうに痛むが、構わず酷使する。なのに山姥切は見つからない。「おお、起きたか」「あ、長谷部さんだ!」 畑仕事が終わったばかりなのだろう。土にまみれながら、カゴに入ったトマトやキュウリなどの収穫物を抱えた陸奥守と五虎退がこちらに声をかけてきた。「国広はどこだ!」「ふぇ!?」 長谷部の必死な声に、五虎退が怯んだ。「どうしたんだ。おっ、長谷部、起きたのか」 騒ぎを聞きつけ、獅子王と三日月も顔を出す。 しかし山姥切はいない。長谷部は布をより強く握りしめると、駆け出した。「長谷部、おちつきんしゃい!」「おい、待て、長谷部。傷が開く、走るな!」 陸奥守と獅子王が制止するが、長谷部はそれを振り切った。「おやおや。困ったな」 三日月は朗らかに大して困ってなさそうに言う。「追え、五虎退! あいつの速さに追いつく奴はいねえ!」「ふぇええええ!」 獅子王に命じられて五虎退は今にも泣きそうである。「お前、いないのに頼むのだな」「よし、じじいも行け!」「はっはっは、無茶を言うな」 長谷部は屋敷中を走り回り、ついに一つの部屋を発見する。何もない洋室だった。開いたテラス戸から眩しい光が射しこみ、レースカーテンがふわりふわりとなびいていた。その中に彼がいた。サッシに寄りかかりレールに沿って腰かける山姥切が、外へ片足を投げ出して、本を読んでいた。 ――国広が風と光に攫われてしまう。「待て! 行くな!」 長谷部は山姥切の腕を掴み、引き寄せて、しがみつくように抱きしめた。 涙ぐむ男に突然抱きしめられた山姥切は驚きながらも、冷静に背中をさする。「どうした」 長谷部は頭を肩に押しつけて、顔を上げない。握り絞めている布を見て察した山姥切は、痛いぐらいに強くしがみついてくる長谷部が落ち着くまで、頭と背中をずっと撫でていた。 少しして、くぐもった涙声が聞こえてきた。「お前がカーテンの中に消えてしまいそうだったから」「大丈夫だ」「布だけ置いていくから」「あんたがいつまで経っても手を離さないからだ。一度目を覚ましたから、布だけ置いて休んでいた」 ということは、それまではずっとそばにいてくれたのだろうか。 不安が取り除かれれば、腹の痛みがずきずきと強くなってくる。 人の気配を感じて、横目で部屋の入り口を見れば、皆がいた。点々と続く血に、獅子王があちゃーという顔をし、五虎退は心配そうにうろうろしている。安心した様子の陸奥守と三日月の顔を見て、長谷部は自分の失態に気づいた。山姥切がそばにいないことに恐慌して、屋敷中を走り回り、すがるように抱きつき、泣いて、挙句の果てに閉じかかっていた傷を開かせる。穴があったら入りたい。いや、棺桶に片足突っ込んでいる状況ではシャレにならない。 耳を真っ赤にして顔を上げられない長谷部に、握り絞められていた布がかけられた。恥ずかしさと痛みで立てない長谷部を、山姥切が抱え上げて、そして布に隠れた顔と耳に口を寄せて囁いた。「すまなかった。今度はずっとそばにいてやる」 ――そうだ。お前が俺から離れるのが悪い。今度は布じゃなくて、手を握れ。