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 資本の総過程は、生産過程と流通過程との統一からなる。その図式をもう一度、示しておこう。

  G(貨幣)─W(商品)…P(生産)…W’─G’

 マルクスはいったん分解してみた資本の過程を、ふたたび総過程として統合している。
 資本の総過程は、連続的で流動的である。しかし、中断と攪乱に見舞われることもある、とマルクスはみていた。
 そうした中断と攪乱は、さまざまな場合でおこりうる。
 生産過剰は商品の過剰をもたらす。貨幣の蓄蔵は投資機会を奪う。生産過程が、生産手段や労働力の不足に見舞われることもある。さらに、流通過程で商品が売れなければ、資本全体の循環が停滞してしまうだろう。
 資本にとっては、何といっても流通過程で価値が実現(増殖)するかどうかが大問題である。
 周期的な価値革命(技術革新による価値の下落や、グローバルな産業構造の変動、さらに為替変動)が生じれば、個別資本の危機はますます大きくなる。そうした事態が深刻になれば、産業は空洞化し、広範な地域経済とコミュニティが破壊され、雇用が流出することになりかねない。
 こうした不安定性さをできるだけ回避するために、資本は、できるだけ大きな貨幣資本を確保しようとする。それが資本の集中と独占化を促すことになる。
 もうひとつの傾向は市場の世界市場化である。
 資本主義が拡大すると、生産手段(たとえば石油)の調達がますます重要になってくる。また商品を世界に売り出す機会も増えてくるだろう。
 資本はどんなところにも進出する。
 そうした傾向は、資本の循環構造がはらむ危機を乗り越えようとする資本の動きを示すものだ。
 ここでハーヴェイは、マルクスが資本の総過程の実現自体に、根源的な難問があることに気づいていたと指摘する。
 それは剰余価値がどのように実現されるのかということである。剰余価値を実現するための需要はいったいどこから生まれるのだろうか。
 労働者の賃金は需要の大きな源泉となる。だが、剰余価値を大きくすれば、それだけ賃金が低く抑えられてしまうのだから、需要はよけいに不足してしまう。これは剰余価値の取得を目的とする資本の大きなジレンマだった。
 労働者以外の有産階級が需要を満たせばいいというのも、ひとつの考え方かもしれない。しかし、それもおのずと限界があるだろう。いずれ資本が資本過剰におちいるのは、目に見えている。
 すると、剰余価値は、資本家によって消費されなければいけないことになってくる。それでなければ需要と供給は一致せず、剰余価値は実現されない。
 といっても、資本家が個人の必要と享楽を満たすために、商品をつくりだし、みずからより多くその商品を消費するという光景は、滑稽であるにしても、現実には考えにくい。資本家の目標は、個人の消費ではなく、あくまでも資本の蓄積なのである。
 マルクスは、資本家の消費が、(必需品と奢侈品の)個人的消費だけではなく、生産的消費によっても成り立っていることを認識していた。
 生産的消費とは事業拡大のための投資である。実際には、それは、より多くの生産手段と労働者の追加雇用に用いられる。
 なるほど、これならば、供給と需要の不均衡は回避できそうにみえる。ただし、そのギャップを埋めるためには、信用制度の介入が必要になってくる、とハーヴェイは論じる。
 剰余価値の実現問題は、いわば永久に先送りされているともいえる。剰余価値の実現は、一度きりの資本の回転では片づかず、いわば問題の先送りによって、将来の長期的実現を期するほかない。
 つまり、資本は永久的な拡大運動をめざすことでしか、剰余価値を実現できないのではないだろうか。その拡大運動がストップしたときには、どうなるか。この問題については、あとで何度も立ち返ることになるだろう。
 ところで、ハーヴェイはこう書いている。
「資本の本質とは、価値と剰余価値の系統的な生産と領有を媒介する、生産における資本─労働の階級的関係である」
 これは、資本が経済権力だということにほかならない。
 さらに、一見唐突に、こうも論じている。
「生産の世界から資本─労働の階級関係が消去されさえすれば、貨幣化や商品化、労働用役の売買がなされる世界でも、社会主義やさらには共産主義を構築することは可能である」
 これはおどろくべき言及といえる。
 社会主義や共産主義になっても、貨幣や商品はなくならない。むしろ、それらは人びとの生活を充実させるために、よりだいじなものとなっていくだろう。
 問題は経済権力としての資本を、民主化し、社会化していくことである。
 ハーヴェイはここで、バスク地方を本拠地とする、スペインのモンドラゴンという労働者協同組合のことを紹介している。
 1956年に設立されたモンドラゴンは、250以上の経営体をもち、8万5000人以上を雇用している。その報酬格差は3対1に収まっているという。
 ハーヴェイによれば、資本の権力にもとづく資本家─労働者の関係を改革し、「自由に協同した労働者が分権的経済において自らの生産過程を管理し、職場の中で自治を行う」というのが、共産主義にたいするマルクスのイメージだった。もちろん有能な経営者が選ばれねばならない。だが、そこでは、国家による計画経済や国民生活の隅々にわたる経済統制などは想定されていなかったという。
 以上は横道である。そうはいっても、これまでの歴史から、ぼく自身はやはり社会主義に否定的にならざるをえない。この点については、さらに考えてみることにしよう。
『資本論』に戻って、ハーヴェイは論を進める。
 価値と剰余価値は生産過程において生まれるのであって、交換過程では生まれない、というのがマルクスの考え方である。つまり、商品がつくられるのは、生産過程においてであり、流通過程においてではない。
 にもかかわらず、価値と剰余価値は、流通過程において実現されなければならない。そこに商業資本が発生する余地というより必然性がある。
 流通過程においては価値が生じるわけではないのに、あたかも価値が生じるようにみえるのはなぜだろう。
 流通過程では、商品が販売されるまでに、さまざまな手間や費用がかかる。そうしたコストはとうぜん回収されなければならない。にもかかわらず、流通過程では価値が発生しないとは、どういうことなのだろうか。
 マルクスによれば、流通過程のコストや利潤は、価値と剰余価値からの控除によって生じる。
 これはいったいどういうことだろう。
 この考え方は、たとえばぼく自身も携わっていた、書籍という商品を考えてみれば、よく理解できるかもしれない。
 仮に定価1000円の本を1万部つくったとする。そのさい、コスト(印刷費、紙代、人件費など)として500万円かかったとする。すると、本が全部売れたとすれば500万円の剰余価値が発生する。
 ところが版元は500万円の利潤を得るわけではない。
 書籍を販売するためには、取次店に本を卸さねばならないからである。仮にそれが7掛けだとすれば、版元にはいる収入は700万円で、書籍から得られる利潤は500万円ではなく200万円ということになる。
 それでは取次は300万円の利益を得るかというとそうではない。書籍は取次から書店に配送され、その店頭で売られなければならないからである。
 もし書店が定価の8割で書籍を販売したとしたら、書店の得る利益は200万円で、取次店の利益は100万円ということになる。
 しかし、取次も書店も、人件費を含むさまざまなコストを必要とするから、実際の利潤はずっと少なくなるだろう。
 これはあくまでも、製造された書籍がすべて売れたとしての想定である。現実には何割もの返品があるから、出版社、取次、書店の利潤はさらに減り、出版社は多くの返品在庫をかかえることになり、自転車操業を余儀なくされる。
 これはほんの一例である。
 しかし、書籍にかぎらず、すべての商品では、多かれ少なかれ、そうした事態が生じているといえるだろう。
 こうした例を挙げてみると、流通過程から価値や剰余価値は生じないというマルクスの見方が、ある程度理解できるのではないだろうか。
 剰余価値をつくりだすのは、生産資本だけである。しかし、商品をつくる生産資本だけが、剰余価値を独り占めするわけではない。流通資本は生産資本のつくりだした商品を動かし、商品価値の実現に寄与することによって、剰余価値の一部を収入として受け取るのである。
 マルクスが生産資本と流通資本の関係においてみているのは、そうした価値の移転過程だとみてよい。
 そこで、マルクスは流通過程について、さらに考察を加える。
 流通過程では、とりわけ時間と費用の問題が取りあげられている。
 まず時間の問題をみていこう。
 マルクスは資本の循環過程、すなわち生産期間と流通期間の合計を、資本の回転期間と名づけた。
 ここでは同じ資本がふたつの期間を支配すると想定されている。だが、生産期間であれ、流通期間であれ、資本が資本の回転期間を加速させよう(言い換えれば短縮させよう)とするのはまちがいないだろう。
 というのも、回転期間が早ければ早いほど、資本は速やかに価値と剰余価値を実現できるからである。
 生産手段についても同じことがいえる。資本にとって、とりわけ原料は、地理的・空間的条件に制約されることが多い。したがって、原料へのアクセスが改善されることは、資本の回転性と生産性の向上に寄与する。
 また流通部門の技術革新が、資本主義の歴史で決定的な役割をはたしてきたことはいうまでもない。
 たとえば、ハーヴェイはここで缶詰と冷蔵庫を例に挙げている。缶詰と冷蔵庫は、商品の使用価値を長期に保存するための画期的な発明だった。
 運輸交通の改善が、流通に大きな変革をもたらし、資本の拡大につながることも実証されている。
 次に流通の費用について。
 流通活動には一定の費用が発生する。流通過程で剰余価値は発生しない。だが、利潤は生まれる。貪欲な商人資本家が、、きわめて搾取的な労働条件により、大きな利益を確保することも可能なのだ。
 流通面で大きな問題となるのは、保管費(倉庫代)である。これはけっしてばかにならない費用である。
 在庫管理は保管費と密接にかかわっている。
 マルクスによれば、在庫とは有休資本にほかならない。それは不生産的であって、資本にとっては在庫管理を改善することが、大きな課題となるだろう。
 在庫が問題になるのは、それが蓄積すれば、生産の連続した流れを止めてしまい、資本の回転期間を遅らせてしまうからである。
 在庫は流通過程においてだけではなく、生産過程においても発生する。流通過程の在庫が商品在庫だとすれば、生産過程の在庫は原料在庫(これも買い入れた商品にちがいないが)である。
 商品にせよ原料にせよ、在庫はある程度必要だとしても、過度の在庫は資本の回転を阻害することになるだろう。
 そこで、在庫管理を改善する手段として、運輸交通の効率性が求められるようになる。運輸が改善すれば、商品にしても原料にしても、多くの在庫をためこまないですむからである。
 ハーヴェイは、運輸は、空間的位置の変化によって価値を生みだすと書いているが、マルクスも、運輸業は追加的な生産過程だととらえていた。
『資本論』にはこう述べられている。

〈物の使用価値はただその消費によって実現されるものであって、その消費のためには物の場所変化が必要であり、したがって運輸業という追加的な生産過程が必要になる場合がある。……輸送によって商品につけ加えられる価値の絶対的な大きさは、運輸業の生産力に反比例し、通らなければならない距離に正比例する。〉

 したがって、運輸の規模を拡大し、時間的に距離を短縮すること(マルクスは「時間による距離の絶滅」と呼んだ)が課題となるのである。
 ハーヴェイによれば「地理的条件を変容させるような空間的競争」が、この200年間、運輸交通のイノベーションを引き起こしてきた。運輸交通革命がなければ、世界市場の形成は遅れたかもしれない。もちろん、現在のIT革命もその延長上にあると考えられるが、これについてはあらためて取りあげる必要があるだろう。

2016-04-22 07:44 nice!(7) コメント(0) トラックバック(0) 
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